病気になったので人生をふり返ってみた 〜 再起のために「なりたいもの」から「したいこと」へ 〜
私は大学院(博士後期課程)に在学している。しかし、2021年8月より体調を崩し、2022年9月より休学、現在でもやや不調な日々を送っている。病名、および、症状名は自律神経失調症、鬱病、不安障害である。
療養のためにたっぷり休んで、自分の気質と向き合う覚悟ができた。この機会に自分の人生を振り返り、何が悪かったのか、これからの人生をより良く生きるために何ができるかを考えることにした。精神的に参ってしまった後には、自分と向き合うことが必要である。同じ考え方で同じ行動をすれば、再び精神に不調をきたしてしまうからだ。
自分をここまで追い込んだ最大の原因、その1つはすでに分かっている。「なりたいもの」にこだわり続けたからだろう。はじめは自衛のために「なりたい」自分像が必要だった。しだいに「なりたいもの」は「すべき」を大量に生み出した。最後には「なりたいもの」がぼやけ、「すべき」ことが残った。「すべき」ことに潰されて、もはや何も感じなくなっていた。
今の心の状態は、何もない平地のようなものだ。今ここに、何か前向きなものを作ろうとしている。「なりたいもの」ではなく「したいこと」は何だろう。色々試して、向き不向きを、そして好き嫌いを理解していく。「したいこと」と「できること」、「やりたくないこと」、自分を理解していく。最近の生活は、その道中である。
この記事は、自分の人生を振り返ってみた文章である。どのようにして歪んだ「なりたい」気持ちが生まれたのか、そして、どうしてそれが最近まで残り続けたのか。
序文の最後に。
この記事は、ただの自分語りである。
Webサイトのブログ記事100本目記念に、自分の過去をひたすら振り返ってみた。傷痕を弄っている気分になるので、おそらくこれが最初で最後になると思われる。それと、読み返して気付いたが、一部時系列が前後している。しかし、面白いのでこのまま放っておくことにした。
※長くて読めない人、読みたく無い人は、「11 人生を好転させるために」のみ読むことをオススメする。
目次
中学高校時代
中高校生の頃は、プロの演奏家を目指して、Tuba(テューバ)を練習していた。それもただのプロTuba奏者ではなく、ソリスト1ソロ奏者で生計をたてていくプロを目指していた。そのようなTubaのプロ奏者は当時1人しか前例がなく、壮大な夢、というよりむしろ無謀な夢である。
大きな夢を持つことは、上等なことだと思う人もいるだろう。
しかし思い返すと、この壮大な夢は、本当に自分で望んだものだったのか怪しい。
この夢は中学生のある時点から持っている。中学でいじめにあった頃からだ。
壮大な夢はいじめから心を守るための盾だったに違いない。本気で打ち込んでいるものがあるから、お前たちより上等だ。世界トップの実力者になるのだから、お前たちより立派な存在なのだ。低俗な存在に何か言われたりされたりしているだけだ。そう思いたかったのだろう。
子供の頃の自分は素直だったと思う。悪く言えば「おりこうさん」だった。やるべき事はキチンとやっていた。道徳心も強く「人が先、自分は後」の精神が善く育っていた。
いじめが始まってから、心がバキバキに折れた。これまでの価値観なんてゴミなんじゃないかと思うほどだった。素直さも幾分か失われただろう。何事もキチンとこなすことが少なくなった。宿題をキチンとやることすら少なくなった。その代わりに、夢を持った。世界でトップクラスの人間になる夢。自分はいずれ偉大な存在になるのだ。世界に賞賛される人間になるのだ。ヒビ割れた心を立て直すために、肩肘張らざるを得なかった。
当時は家が裕福だったので、中学3年生のときに自分専用の楽器を買ってもらって、一日中練習した。正直なところ長時間の練習は嫌だった。それでも練習した。高校は吹奏楽の強豪校に行きたかったが、親の反対もあり、市で一番の県立進学校に進学することになった。高校受験の勉強はしていない。完全に自暴自棄になっていた。それでも合格してしまった。
なぜ進学先について親を説得しなかったのだろうか。心が疲弊し、説得するエネルギーが足りなかったのかもしれない。しかしそれ以上に、親と衝突して面倒を増やすのが嫌だった。人と衝突してもいいことなんてひとつもない。いじめ以降はそのような考えが強くなった。「人が先,自分が後」の精神は大きく歪んでしまった。ただのルールである。自分を縛るための鎖にすぎない。道義でも道徳でもなんでもない。ただ面倒な事を回避するための規則に成り下がった。
身を守る方法も歪んでいた。それまで大好きだったことを全て捨てたと言ってもいい。いじめが始まるまでの私は、数学が大好きな人間だった。難問ばかりの問題集を買っては解いて遊んでいた。いじめが始まって以降、数学を勉強した記憶がほとんどない。勉強がいくらできても、ハタから見ればガリ勉だ。たとえ楽しんで勉強していたとしてもだ。否定されない大きく立派な自分が必要だった。傷は内側へ隠すしかなかった。ストレスを発散するために自室の布団にうずくまって呻き声を上げていたり、床を叩いたりしていたら、親に「うるさい!」と怒鳴られた。反論はしなかった。面倒な事を避ける規則がここにも現れる。傷口は内側へ内側へと隠す他なかった。悲鳴をあげる内面を守るために、強固な外面を作り上げるしかなかった。圧倒的な人間になろう。そうして選ばれたのがクラシック音楽だった。当時所属していた吹奏楽部ではTubaを演奏していた。Tubaのプロになる。それも前例が1人しかいない、ソリストとしてのプロになる。本気で目指している自分は上等な人間なのだ。だから外部からの攻撃も、心の奥底にある生傷も傷痕も、全て関係が無いものなのだ。自分にそう言い聞かせていた。これは本当に身を守っているのだろうか。
こうして、歪んだ価値観で自分を守るためには、偉大な私に「なりたい」と思うしかなかった。そして「なりたい」自分像を目指すしかなかった。
高校に進学して、いじめは無くなったが、虚像の夢と歪んだ心はそのままだった。
せっかくの進学校なのに、勉強は全くせず、楽器の練習に打ち込んだ。一応、吹奏楽部にも入部した。
その後、長らく付き合うことになる彼女との馴れ初めがあったりするのだが、それは割愛する2これは話し始めると、元彼女のプライベートな問題を詳細に話す必要があるためであり、元彼女に配慮してのことである。読者に配慮してのことではない。。
さて高校進学後も順風満帆とはいかなかった。
まず、Tubaのレッスンを頼んでいた先生が最悪だった。音大を目指すなら、実力のある奏者に演奏を教えてもらう(これをレッスンという)。私の地顔は若干眠そうなのだが、レッスン中に「眠いなら帰れ!」と何度も怒鳴られた。地顔を怒られるのは辛かった。その割に良いアドバイスをもらえたことは一度もない。誇張無しで一度もない。数回のレッスンの後に、その先生とは連絡を取らなくなった。
高校1年生の秋だっただろうか。家計が急変した。父が多額の借金を残して失踪した。たかが個人がどうやったらここまで借りられるのかと思うほどの、多額の借金が残された。ありとあらゆる消費者金融で借金をしていた。父はギャンブル好きだったので、ギャンブルで借金を作ったのだろう。そしてある日、会社に行くふりをして父は失踪した。失踪届けも出した。警察、会社の人、様々な人が家に来た。
失踪した父の捜索に参加することになった。いくらハリボテの夢とはいえ、夢に向かって練習する時間を、来る日も来る日も奪われるのはしんどかった。このハリボテすら無くなったらどうなるのだろうか。この頃から私は、より肩肘張った生き方をするようになった。「なりたい」自分だけが一人歩きしていた。
約1ヶ月後、父の実家近くのパチンコ店の駐車場で、父は生きて発見された。その後は再び、警察、会社の管理職、金融会社の人間が続々と家に来た。後から聞いた話だが、父は何も話さなかったそうだ。謝罪の言葉も、借金の理由も、何も無い。無言を貫いたそうだ。捜索した人間への謝罪などあるはずも無し。あるのは膨大な借金だけ。その借金を返済するために、貯金のほぼ全てが使われた。父は仕事を辞めた。こうして無事に、私たちの世帯は富裕層から貧困層へと成り変わっていった。
さて、その頃さっぱり勉強していなかった自分には、音楽の道しか残されていなかった。その音楽の道にも暗雲が立ちこめ始めた。音楽大学を目指す場合、前述の通り、通常は優秀な先生に教えてもらうのだが、良い先生のレッスン代は馬鹿にならない金額なのだ。もちろんそんなお金は無い。また、副科のピアノのレッスンや、ソルフェージュ3音楽の基礎能力、主に聴音(曲を聴いて楽譜に起こす)と初見視唱、初見演奏で能力が測られる。要は正しい音程を捉えイメージする能力のレッスンも必要になる。こちらにもお金がかかる。ピアノとソルフェージュのレッスンは、かなり遅めだが2年生の冬頃から始めることとして、なんとか解決した。Tubaの先生については、前の先生とは連絡を取らなくなったので、新しく先生を探す必要があり、しかも格安で引き受けてもらえる人を探す必要があった。はっきり言って無理ゲー。と思っていた矢先、運の良いことに条件に合う先生があっさりと見つかった。その先生は海上自衛隊の音楽隊所属であり、公務員なので副業NGである。つまりレッスン代は無料だった。場所がやや離れていたため交通費はかかるけれど、それでも本当にありがたかった。無料で上質なレッスンを受けられるなんて、奇跡か何かだろうか。
ちなみにレッスンについても親に反対されていた。独学でプロになれということらしい。馬鹿なんじゃねえの。そこは何とか説得に成功した。それでも、ピアノやソルフェージュのレッスンは開始が遅くなり、訓練が遅れてしまう結果になったのだが。
3年になってピアノとソルフェージュのレッスンが本格化した。そこで私には,ソルフェージュの能力に多少難があることが分かった。自宅で膨大な聴音課題に取り掛かり、正しい音程を歌うための教本『コールユーブンゲン』は真っ黒になるまで書き込みながら練習した。しかし、ソルフェージュの能力の伸びは良くなかった。その時の高校の音楽の先生が最悪で、音大志望者向けの音楽の授業中、ひたすら簡単な曲を歌わせるというものを、人前でさせられ続けた。練習をサボっていると決めつけられた。だから「こう練習するのだ」とひたすら歌わさせられた。確かに練習不足ではあるが、事情があって練習開始が遅れたためである。はっきり言ってその場でやらされたことは何の意味もなかった。今になって冷静に振り返ってみても本当に無意味だった。ただ恥をかかされただけだった。
私の人生は決めつけられることが多い。しかもその決めつけが正しかったことが一度もない。ちなみに反論したことも一度もない。これに関しては私も悪い。
最終的に、将来的に特待生による授業料免除を目指せる音大に入学した。こうして無事に「なりたい」自分への道を進んでいるかのように見えた。
音大退学から再受験,大学入学まで
ハッキリと言おう。私の進学した音大は井の中の蛙だらけであった。その音大の中で上位の実力でも、他の音大・芸大の人も合わせれば、そう大した実力ではない。にもかかわらず、その音大の中で評価が完結している人が多かった。その音大で上位の人は,有名コンクールの入賞を、他の学生たちに期待されるほどだ。残念なことに、その音大の中ですら私の実力は1番ではなかった。さらに、他大学のトップクラスの音大生との実力差が、遅れを取り戻すことなど不可能なほど大きなものであることを悟ってしまった。つまり、ソリストは無理だと分かってしまった。
ソリストは無理だ分かると、すぐに退学した。入学して半年も経たずに退学を決めた。「なりたい」という気持ちが暴走していた自分にとって、理想の姿になれないという現実が深く突き刺さった。プロ奏者への興味も薄れていった。
授業料の支払いは無駄だと感じるようになった。だから早々に退学した。決断が早かったのは、それだけが理由ではない。肥大化したハリボテの夢が崩れる様子を見るのが怖かった。自分がもう何者でもないということだけが理解できた。自衛のために目指した夢だったが、いざ崩れると、怖くて仕方がなかった。膿んだ傷痕や歪んだ心が曝け出されるようで怖かった。
だから、次の「なりたいもの」が必要だった。
そうだ勉強しよう。研究者になるんだ。そう決まった。
勉強がしたかった。大学に入り直したかった。なぜ音楽をやっていたのか。分からなくなった。
しかし、新しいハリボテの夢への道も順風満帆ではなかった。ショックなことが起きた。退学後もTubaの先生や友人たちとは仲良くするつもりだったが、それができなくなった。数名の学生に退学する旨のメールを送ったが、それに悪質な加筆をされたメールが先生の元へ届けられたのだった。結果は破門。一方的な連絡拒否。ショックだった。破門がショックだったのではない。日頃から「自分の目で直接確認したことしか信じない!」と豪語していた先生が、一方的に破門を言い渡してきたことがショックだった。「自分の目で直接確認したこと」とは、人のことであれば、本人から確認したことである。それは、先生自身が言っていたことだ。にもかかわらず、改ざんし放題のメール1本で連絡を拒否された。尊敬していた先生が、どうしようもないホラ吹きで、日頃から豪語していたことが全くのデタラメであったことがショックであった。いい歳した大人が、善人の皮を被って、20にも満たない年齢の人間相手に大嘘をついていた。その事実が何よりもショックだった。退学を決めたのは6月末だったが、12月まで自宅に引きこもっていたのを覚えている。
中学の頃のいじめ。最初のTubaの先生の言動。高校の音楽教師の言動。父親の借金。大学のTubaの先生の言動。メールを書き換えて転送した誰か。心はもうぐちゃぐちゃだ。他人を信じられなくなった。もう嫌だ。他人は敵だ。それでも「人は先、自分は後」なのか?自分でも何が何だか分からない。
ちなみに音大には、虚言癖、なぜ入学できたのか分からないレベルの下手くそ、日本語も怪しい日本人、暴力的なおっさん(学生)など様々な人がいて、破門される前から人間不信に拍車がかかっていたのは言うまでもない。
中退から12月まで、ショックに負けて勉強に手がつかない日々が続いた。傷心の私は、自分を守るために、設定した夢を立派なものにしたかった。第1志望は京都大学。しかし、12月までろくに勉強していない人間に合格は無理だ。浪人も難しく、今すぐに入れる大学に入ることにした。この頃にも紆余曲折があったのだが、もはや思い出したくもない。ただの地獄である。
お金の面から、国公立大学に限定して志望校を選んだ。当時の彼女の近くに住むために関西圏で大学を探すことにする。図書館が充実している大学ならどこでもよかった。一人で賢くなるから。教員も友人もいらない。そう考えていた。
なぜか余裕で合格できる公立大学を見つけて、受験し入学した。学部は経営学部である。
大学再受験については、きっかけからプロセスまで何だか違和感があるのけれど、ともあれ何とか合格に辿り着いた。
大学学部時代
再入学した後は、真面目に勉強し、予定通り図書館に入り浸った。2回生の時には成績優秀者に選ばれた。全てを見下していた。大半の学生が馬鹿に見えていた。友人も少なかった。吹奏楽部に入部していたが、すぐに辞めた。「なりたい」自分になることに必死である。それ以外はどうでもいい。お金を貯めておくために、個人契約の家庭教師を何件か引き受けていた。「すべき」ことだけをこなす、ただそれだけの大学生活。
大学1回生の時に、2人の良い教員との出会いがあった。
ひとりの先生は、レポートの書き方を教えてくれた。専門外の用語を書く時には、どれだけ丁寧に書かなければ相手に伝わらないかを教えていただいた。科学的な文章の書き方も教えてもらった。このことは2回生に成績優秀者となったことに、大きく貢献している。フィードバックを貰えるのはありがたかった。
もうひとりの先生は、数学の先生である。温厚な性格の先生で、数学で博士号を取っている教授である。講義は実に数学的で、悪くいえば文系学部の学生には縁の無い内容とアプローチだった。しかし、私は大学数学らしさが溢れる講義に熱中していた。その先生の講義は全て取った。3回生の頃からは、その先生とマンツーマンの数学ゼミを行い、数学の勉強をした。内容は代数に偏っており、集合論、線型代数、群論をみっちりと勉強した。数学科のような厳密さで書籍から勉強した内容を発表し、かと思えばイメージや印象、具体例を質問されるというバランスの取れたゼミだったと思う。
さて学部3回生の頃から,自分が数学好きであることを思い出してきたと思う。しかし、ゼミに必要な最低限の勉強しかしなかった。明らかに数学は「したいこと」であるが、数学をしても「なりたいもの」には近づかない。今から理学部数学科に転学部転学科することは、現実的ではないと感じた。この頃には、「なりたいもの」が「したいこと」より優先されるのが当然になってきていた。
この頃の「なりたいもの」は機械学習の研究者だった。大学で研究をする人間が理想的だと感じた。当時はちょうど、ディープラーニングが良い結果を出し始め、同時に、カーネル法などニューラルネット以外の研究も盛んな時期だった。この分野は伸びると直観した。さらにこの分野は将来注目を集めることになると感じた。立派な殻で自分を覆いたい私にとって、機械学習の研究者は理想的な「なりたいもの」であった。
3回生の夏休みに奈良先端大学院大学の夏季体験講座に参加した。そこでの経験から、理論寄りの研究が自分には合っているのではないかと思うようになった。偶然にも「したいこと」に近づいている。
3回生の春休みから、機械学習の理論を研究できる研究室を探した。3箇所ほど研究室を訪問したときに、自分に合う研究室を見つけた。
4回生からは、進学予定先の研究室で、研究に参加させてもらえることになった。しかし、なかなかハードであった。私は一応ゲストという扱いになっていたのだが、なぜか共同研究の主要なプログラムのコードを、私しか書こうとしなかった。就活で忙しかったのだろうか。さらになぜか、学会主催の研究会に向けた共同研究の、中心人物になってしまった。発表3日前には、用事があるためこちらに作業を流さないで欲しいと、研究室のメンバーに伝えていたのだが、かなり念押ししたにもかかわらず、先輩から大量の作業依頼のメールが届いていた。結果的に、彼女の家にPCを持っていって、実験用のプログラムを動かせてもらった。手が空いているはずの先輩もいたし、教授はその先輩に作業の割り振りを確認するように言っていたのだが、研究会前日になっても作業の割り振りをせず、その先輩は帰ってしまった。もちろん、発表用スライドはほぼ未完成である。帰ってしまった先輩とは連絡が取れない。帰ってしまった先輩と私しか理解していない部分もあったため、こうなってしまったら私がやるしかない。他の修士の学生に混じって、日付が超えるまで作業に明け暮れた。帰宅したのは1:00、次の日の起床時刻は5:00である。もうクタクタであった。研究会当日は、留学生の話し相手も押し付けられたりした。眠たいのに勘弁してくれ。
こんなグダグダな人たちに囲まれていたが、私が入学する頃には、その人たちは卒業しているので、全く問題ない。
などと甘いことを考えていた。
その年の修士の2年生たちは、修士論文の前半部分を共著で書くことにしていた。そしてなぜか理論部分の執筆を私が担当した。自分の卒業論文も似たテーマであったため、自分用に書いたものを渡すことにした。しかし、私の卒業論文と彼らの修士論文は共著ではない。最低限の条件として、例や図を自分達で書き換えて欲しい、と頼んだが無駄だった。渡した文章を例も図もそのままに、しっかりコピペされた。提出期限は修士論文よりも卒業論文の方が後だったため、共有した部分を自分の卒論用に書き直した。
一見無茶苦茶な研究室だが、その代の人間以外にはひどい人はいなかったと思う。それに理論の研究は自分に向いていたのだろう。不思議と研究室や研究自体に嫌な気分を持たなかった。
修士課程,鬱傾向の現れ
修士課程ははっきり言ってチョロかった。講義をこなしつつ研究も進め、専門書を何冊も読み進める。「なりたいもの」に近づいているのを感じていた。
しかし、この研究室にも自分に合っていない点があった。締切が急に降ってくることである。急に降ってきた締切にも対応していたが、このせいでかなりのハードワークになった。博士に入ってから気づいたが、私は急な締切に弱いようだ。
修士課程1年目の夏休みから重い不眠症状が出るようになった。インターンシップが必修科目だったのだが、不眠症状が酷すぎて、1年目にインターンシップに行くことができなかった。
2年目になって、なんとかインターンシップに行った。4回生の時にひどい目に合わしてきた先輩の1人の紹介で、インターンシップ先を決めることができた。インターンシップの内容は、実際の案件をこなすという、アルバイトや社員と同じ業務内容だった。正直のところ、実務経験を積めたので、これはラッキーだった。その先輩には、その点に限り感謝している。
修士2年目も夏場以外おおよそ体調を崩しており、学振の申請ができなかった。これが後々効いてくる。
修士論文審査会や博士課程の入試前も体調不良で、ろくな思考ができていなかったと思う。
修士の頃の体調不良の原因は主に3つある。
ひとつは、ハードワークである。突然の締切が本当に苦手だったようだ。
次に、人からどう見られているか、異常に気になるようになった。立派な自分になることを重視していた私にとって、他者からどう見えているかは最重要である。しかし、それが大きなストレスになっていた。
最後にして最大の理由は「なりたいもの」に興味がなくなりかけていたことにある。学部時代は研究者、特に大学教授になろうと思っていたが、その実態を見て愕然とした。減っていく事務員。事務仕事に忙殺される教授たち。私の思い描く立派な「なりたいもの」など存在しないのかもしれない。それから、あまり大学教授に「なりたい」と感じなくなった。
そして、アカデミックに残る意欲が減っていたのに、博士課程へと進学した.
博士後期課程(指導教員の変更と環境の変化)
確か1年目の夏だっただろうか。先生に機械学習の社会人向け講座の雑用を頼まれた。資料の整理とのことだった。しかし、講座前日に翌日に必要なコードの作成を依頼された。さらに当日に、MeCab(形態素解析のソフト)のインストール方法と、MeCabをpythonコード上で動かす方法を資料にまとめて欲しいと言われた。さらにさらに、講座の直前ほんとうに数分前に、私が教壇でインストール方法を説明することが決まった。この講座のことは今でも苦い記憶として残っている。突然の締切の連続に作業が間に合わず、インストール方法の説明が大雑把になってしまった。その結果、何人かの受講者が、PATHを消してしまうという事故が起きた。説明不足によるミスだった。自分を責めた。朝食を食べずにに作業していれば、徹夜で作業をしていれば、問題のないコード、完璧な資料、完璧な説明ができたのに。自分を激しく責めた。思い出すたびに自分を責めた。自分の能力は低いのではないかと感じるようになった。
博士1年目の1月、とある学会の研究会に参加することになった。忙しかったのだが、研究室のメンバー全員で様子を見に行くために、指導教員を含む誰か1人は必ず発表することになった。私は忙しかったが、指導教員はさらに忙しいであろうことを私は知っている。他の学生に発表の意志は無い。応募締切当日になって、誰も発表しないとのことだったので、私が発表することにし、参加申請をした。しかし私が発表する必要はなかったことが、後日わかった。同じ研究室からもう1人発表者がいたのだ。私よりもだいぶ前に発表を決めていたようで、連絡ミスでそのことが伝わっていなかったようだ。その研究会は実験、理論の整理、予稿の作成、スライドの作成、全てがギリギリとなり、発表スライドに関しては、発表直前まで直しをしていた。研究会が終わり、出張先から自宅へ戻った後には2週間ほど動けなくなった。心身ともにガタがきており、ダメージが大きかった。
ちなみに、ここでお金に関して説明をしようと思う。高校時代に父が借金を残して失踪したせいで、実家はすっかり貧困層になってしまった。そのため、仕送りは家賃と授業料だけ送ってもらい、生活費や書籍費用、交通費や出張の建替え費用は、全てアルバイトで賄っていた。博士課程の活動とアルバイトの両立はキツかった。
当時はこれらのハードワークに加えて、「なりたいもの」への意欲が無くなっていた。大学教員に魅力を全く感じていなかった。私には、雑務をこなしながら、講義や研究ができると思えない。企業の研究職にもあまり魅力を感じなかった。博士課程への進学を後悔することが増えた。博士課程への進学を決めたのが、不調な時期だったことも後悔の原因だろう。
「なりたいもの」を目指さないといけない。立派な存在を目指し、そうならなければならない。そうでないと、弱い自分は酷い目にあってしまう。そのような思いに突き動かされた状態だった。不安定な「なりたいもの」から溢れ出た「すべきこと」が心身を削っていた。
博士課程2年目。
指導教員が変わることになった。以前の指導教員が他大学へ移るためである。このことは1年目の1月頃から知っていた。追いかけて大学院を移ろうかとも思ったが、その先生の新しい所属が、とある大学付属の研究所であり、学生の募集をしていなかったため、泣く泣く断念した。
新しい指導教員の研究室でも、前の指導教員の指導のもと研究を続けられると聞いていた。しかし、実態は想像と大きく異なっていた。
まず何よりも、研究室の方針が全く異なっていた。以前の研究室が理論なら、新しい研究室は応用の最前線である。
そして、研究室の活動に関しては、新しい研究室の活動に全て参加することになった。毎週ある研究室内の研究会にも参加することになった。そこで2週間に1度のペースで発表をしなければならなかった。はっきり言って2週間に1度スライドを作るのはキツい。というか、理論だと2週間で進捗があまりないこともある。
以前の指導教員との連絡頻度は大幅に少なくなった。
事前に聞いていた話と、あまりに違う。その実態に面食らった。
そして、最初の研究会。
あるフレームワークを活用するための理論について壁にぶつかっていたので、何かヒントにならないかと、そのフレームワークを使った大規模な実験を行った。実験用プログラムを回しながら、新しいことを勉強したり、壁になっている部分を突破するための理論が作れないか試行錯誤していた。大規模実験は全部で3ヶ月はかかるものだったが、途中結果が出てくるようにしており、それもヒントにしようと考えていた。
最初の研究会では、そのことを話した。
反応は最悪だった。「3ヶ月待てばいいだけなんて、楽な研究でいいね!」「待つだけの研究!」と大笑いされた。実験のコードを実行している間、何もしていないかのような言われようだった。
さらには、理不尽な2択を強制された。
「あなたのやっている研究の最終的なゴールはAかBか?」
どちらでもなかったので、その旨を伝えようとすると、
「そんなことは聞いていません。どちらなのかを答えてください」
どちらでもないのだから、当然どちらでもないと伝えようとすると、
「AかBで答えてください。そんなに難しいこと聞いてるかなぁ?」
といった具合の強制2択が続いた。
もうこの研究室に馴染めないと気付くべきだった。
博士課程2年目の夏、とある国際会議の論文締切4日前に、いきなり参加することが決まった。以前に学会の研究会で話した内容+αを発表することになった。そのための論文(予稿)を4日で書くことになった。英語の論文を4日で書く。正直、書きたくなかったが、まわりの圧に逆らえなかった。これに関しては、ハッキリ言って、拒否できなかった弱い自分が悪い。睡眠時間を削って書いた。以前の指導教員と連絡を取りながら、何とか書き進めていく。
投稿締切の2日前に、新しい研究室のやり方に合わせるよう求められて、そのセッティングに手間取ることとなる。ただでさえ時間がないのに、精神的にさらに追い詰められた。前の指導教員と進めた研究だったため、以前の研究室のやり方で進めるつもりだった。しんどさがどんどん増していった。以前の指導教員と今の指導教員の板挟みで、五感全ての情報がストレスにしか感じなくなってきた。
とうとう頭がおかしくなって、倒れた。
締切2日前の夕方に、郵便局に行く用事があった。その道中で意識が遠のいた。壁に手をついて体を支えようとしたが失敗し、倒れた。目が覚めると、体を地面に打ち付けた痛みと、大根おろしのように手の皮膚を擦りむいた痛みが走る。
寝よう。
自宅と研究室のどちらに行くか悩んだが、倒れた場所からは自宅の方が近かったため、自宅に帰って寝た。
論文の締め切りには間に合わなかった。
体も壊した。
もう何が何だか分からない。
1回目の休学(アルバイトと救急搬送)
倒れてから数週間、呆然としていた。自分は何をしているのだろうか。自分は何をしていたのだろうか。
すぐに休学を決めた。
休学してからしばらくは,ぼーっとしていた。
取り止めのないことを考えた。大学院を辞めようかな。起業家になろうか。お金持ちになりたいな。生きる理由がないな。死ぬ理由もないな。何をしていたのだろうか。何をしているのだろうか。
頭の中はぐちゃぐちゃだったが「博士は足の裏の米粒。取らないと気持ち悪い」という言葉を信じて、博士号を取ろうと決意した。グラグラに揺らいだ「なりたいもの」になるために必要だから、「すべき」ことだから。そのためには、今の生活費を、そして先々の生活費を稼がなければならない.
数ヶ月経った頃、生活費が必要だったのでアルバイトを始めた。
大学のアルバイト、クラウドソーシングサイトのタスク。
そして、とある場所で非正規公務員をすることにした。念のため、どこで非正規公務員をしていたかは伏せておく。その職場ではOCR(光学的文字認識)を使っていた。私に割り当てられた仕事は2つ。文字認識ができていない部分の確認、そして人手での入力。もうひとつは、書類不備がないかの確認作業だった。ちなみにこの確認作業は、行政側の書類作成のミスにより増えた仕事である。
OCRシステムは腐っていた。一体どのようにシステム開発を進めれば、こんな酷いものが出来上がるのだろうか。文字を1文字ずつに分解するシステムと文字認識のシステムが腐っていた。ゴミクズ同然。少しでも画像認識システムに関わったことのある学生に頼めば、間違いなく圧倒的に良いシステムができる。それほど酷いシステムだった。根拠なく言っている訳ではない。私は数年前に、CAPTHCA4ぐにゃぐにゃの文字が表示され、その文字を正しく入力するやつ。人間であることの確認用と思われる。破りのプログラムを遊びで作ったことがあった。私は画像認識の専門家じゃない。それでも簡単に作れた。このOCRは本当にポンコツだった。
非正規公務員のアルバイトは最悪だった。私の仕事は、ゴミのようなOCRシステムの尻拭いと、ポンコツ書類を作った公務員の尻拭い。ただそれだけだった。
当時新型コロナウイルスが流行っていたこともあり、職場に雑談はなく、食事も黙食が絶対のルールだった。非正規公務員の仕事中は息が詰まる思いだった。
ある日の夜。夜12時に突然目が覚めた。呼吸ができていない。急にパニックになった。体を起こすと少しだけ楽になる。何度も深呼吸をした後、ゆっくりとした呼吸に戻す。すると頭がぼーっとし、息苦しさと体の重さがなだれ込んできた。1時間ほどその状態が続いた。その間、新型コロナウイルスに感染した可能性や肺炎になっている可能性が頭によぎった。それでも不思議と死の恐怖はなかった。
「楽になれる」「やっと終わる」
苦しみの中で感じた感情の大半は、決して死への恐怖ではなかった。救済を感じていた。
1時間ほど経過して、苦しさが限界に達した。それでも、119番通報をするか、苦しみの中で悩んだ。
「彼女が悲しむだろうな」「親が悲しむだろうな」
その考えが頭に浮かんだとき、スマートフォンの緊急通報ボタンから、119番に電話をかけていた。
電話から10分ほどで、救急車が到着した。
救急車の中でただちに、血中酸素飽和度が測定された。血中酸素飽和度は100を記録した。正常値は96〜99である。これはどういうことかというと、過呼吸である。1時間以上もの間、過呼吸になっていたのである。念のため病院で検査をして、しばらく休憩させてもらった。結局3時間近く過呼吸が続いた。朝4時頃、病院を後にした。お金をほとんど持っていなかったため、タクシーで途中まで帰り5自宅にもお金を置いていなかったので、持ち金で乗れるところまで乗せてもらった。少しオマケしてもらった。タクシーの運転手さん、ありがとうございます。、そこからは歩いて帰った。小雨の降る夜明け前の神戸を、パジャマで歩いた。
その後、非正規公務員のアルバイトは辞めた。
療養から復学へ
大学のアルバイトを増やしながら、アルバイト以外の時間は休養にあてた。いくら休んでも頭の中はぐちゃぐちゃのままだった。
この頃から、お金持ちになりたいという欲求が出てくる。彼女が結婚を意識し始めたこと、今までお金が無くて苦労していたことから、この欲求は日増しに強くなった。次の「なりたいもの」はお金持ちだろうか。
その後、個人事業をやろうと思い、個人事業開業届の提出と青色申告の申込をした。何をやるのかは決めていなかったが、何かやればなんとかなるだろうと考えていた。
この頃、何を考え、どのような事業をやっていたかはよく覚えていない。確かWebサイトやWebサービスをいくつか運営していたと思う。誰も見ていない、使っていないものだったけれど。正直なところ、事業と呼べるものではなかったと思う。頭の中がぐちゃぐちゃのまま、ゾンビのように活動していた。
アルバイトと事業以外の時間は、全て休養に使っていた。
しばらく経って、なぜかは分からないが復学することにした。現在所属している研究室に戻ることにした。自分でも何をやっているのか全く分からない。今に始まった事ではない。修士課程2年目の後期からずっと、自分の行動が全く分からない。この話は最後に詳しく見ていこうと思う。
さて、復学するにあたって、研究テーマを変えることになった。今の研究室に合った新しい研究テーマにするのである。いくつかの共同研究先と研究テーマの例を教えてもらって、最終的には自分で研究テーマを決めることになった。
先に行っておくと、この新しい研究テーマでは、研究成果を何も残していない。研究テーマを決めて、手を動かし始めた。今回の研究テーマは、明確に応用先が決まっていた。現実の問題があり、その問題を解決する。解決方法は何でも良い。むしろ解決方法を選り好みするべきではない。解決することが最重要である。
研究テーマ選びも間違えたと思う。自然言語を扱ってしまった。この頃の自然言語処理は、文章生成ならGPT系、それ以外はとりあえずBERTみたいな状態だったと思う。とりあえずBERTを使うと考えると少し萎えた。万能に近い手法はあまり好きでない。本来、あらゆる確率分布に対応できる万能アルゴリズムなどあり得るはずもないが、言語というのは想像以上に確率分布が偏っているようだ。万能アルゴリズムも存在するかもしれない。そうなるともう気分が萎えきった状態である。終わりが見えた分野だと感じてしまった。おそらく見当違いだけれども。何はともあれ「とりあえずBERT」というのは面白さが感じられなかった。
それでも、研究テーマには自然言語的ではない部分もあったので、そこを中心に研究した。しかし最終的には問題解決に結びつける必要があり、そこで「とりあえずBERT」が待っている。研究を進めるのが億劫で仕方なかった。
ここで少々、当時の経済状況を説明したい。
当然のことだが、休学中も賃貸を借りる必要がある。実家は遠いので、引っ越し費用が馬鹿にならない。休学中も賃貸を借り続けた。実家の家計に負担をかけている自分が嫌いだった。実家に余裕がないことは知っている。少しでも実家の負担を減らすために、仕送りをさらに減らしてもらった。家賃の一部と生活費を自分で稼がなければならない。
復学が近づいてきた時に、給付型奨学金に応募してみたが、ひとつも採用されなかった。ただ、半期分の授業料が全額免除になったので、実家の負担を減らすことができて嬉しかった。実家の負担は、家賃の一部だけになった。
振り返るとこのあたりの心情も、だいぶ狂ってしまっていると思う。状況的には、自分のことを最優先にしなければならないほど追い詰められている。
復学すれば新しいテーマで、博士課程2年生の後半からスタートだ。残り時間は少なかった。博士号を取得するためには、博士論文を書き、博士論文審査会(Defence)を乗り越えるより前に、査読ありの学術誌に論文がアクセプトされること、国際会議で発表することが必要であった。この分野は研究の発展スピードが早く、国際会議は盛んだが、論文の査読は時間がかかる傾向があった。残された時間は想像よりも短い。
このような自分最優先でもおかしくない状態で、「人が先、自分は後」が発動していた。もはや呪いである。実家の家計をすごく心配していた。自分の体調や研究の進捗の方が重要だろうに。後輩からの相談にのり、TA6ティーチングアシスタント。実習がある授業のアシスタント。主に大学院生がアルバイトでやっている。業務時間外の質問にも丁寧に応えていた。自分と他人のバランスが完全に崩壊している。もちろん悪い意味で。
異変と帰省準備
2021年8月になると、体に明らかな異常が現れた。
まず朝起きることができない。体を起こすとフラフラして吐きそうになる。しばらくすると平気になるのだが、猛烈な体調不良に襲われることが多くなった。
さらに、動悸や過呼吸が当たり前になっていった。
それでも、アルバイトや勉強会の準備などをこなしていく。起きられないならば、這ってやれば良い。
そうしているうちに、体調がさらに悪化していった。
オンライン学会のサポートという、簡単なアルバイトすらできなくなり、断ることになった。
8月半ばから食事もほとんど取れていない。食欲がほとんどない。特に油物や炭水化物を少量しか食べられなくなった。
8月下旬に新型コロナワクチンの職域接種が大学であった。当然、予約していたのだが、移動中に体調を崩してしまった。熱中症と発熱のため、ワクチンを打つことができなかった。
この日から世界が一変して見えるようになった。マスクをしていない人間や、咳をする人間が異常に気になり始めた。当時住んでいた三宮の南側は、はっきり言って新型コロナ対策をしない若者が多かった。特に2021年6月以降、ちょうどデルタ株が猛威を振るい始めた頃から、スケボーに乗る若い人が増えた7オリンピック以降さらに増えた。基本的にノーマスク、店内でもノーマスク、どこでも大声で騒ぐ、歩道や車道で蛇行、器物破損(ベンチなどの破壊)、群れて迷惑行為をするなど、冗談抜きにまともな人を1人も見なかった。ちょくちょく見かける危険運転をするUberEatsの配達員なんて、アレと比べたら可愛いもんだ。マナーの悪さが他の比じゃない。もちろん私が観測できた三宮の南側だけに限った話だが。。私の観測した限り8合計100人近くとすれ違っただろうか、1人もマスクをしていなかったし、ノーマスクのままコンビニ等で大声を出して騒いでいた。以前はそのような人達を冷ややかな目で見ていたのだが、職域接種のワクチンを打ち損ねた日から、殺意を持って見るようになった。あんな悪人がなぜ生きているのか不思議でたまらなかった。
その後、他の接種会場でワクチン接種を試みたが、予診で弾かれた。平熱が高いこともあって、少しでも熱が上がると37.5℃を超えてしまう。
余談だが、接種券に付いていた「予診のみ」のシールにはどのような意味があったのだろうか?予診で弾かれることが2回あったが、ついにそのシールは回収されることが無かった。
早く打ちたかったため、大規模接種会場の余ったワクチンを消費するボランティアに登録した。しかし、余剰ワクチンを知らせる電話を無視した。この頃から恐ろしい症状が出始めた。根拠のないワクチン不信である。mRNAの歴史について学び,ワクチンに利用されるより前の論文にも目を通した。イスラエルでの大規模接種(人体実験)と、論文の内容から、短期的、中期的に問題がないことは理解していた。長期的なことは知らないが、情報と理屈は理解した。ところが、安全性を論理的に理解しているにも関わらず、心が新型コロナワクチンを拒むようになった。理屈など通じない謎の不安。ドロドロした廃液のような不安が頭から離れなくなった。
しばらくすると、自分は新型コロナウイルスに感染して死んでしまうんだ、という恐怖が頭を覆い始めた。
ワクチンへの不安と、新型コロナウイルス感染への恐怖。確実に支離滅裂な思考になっていった。
人とのやりとりの間は、なんとか正気を保っていたが、精神的におかしくなっているのは明らかだった。
後期のTAも辞退した。TAをしたら新型コロナウイルスに感染して死んでしまうんだ……という謎の確信があった。
胃腸の調子が悪くなり、胸のあたりが痛むようになった。 息苦しい。 辛い。 体が重い。 痛い。 痛い。 辛い。 痛い。 つらい。 辛い。 辛い。 苦しい。
9月末に循環器内科と消化器内科、そして最後に心療内科を受診した。
循環器内科と消化器内科で異常は見つからなかった。そして、心療内科では、自律神経が乱れていると言われた。駆け込みの診療で、短いカウンセリングのみであったため、それ以上のことは分からなかった。薬をもらって帰ったが、苦痛が治まることは無かった。
アルバイトは全て辞めた。
もう神戸にいることはできなかった。
お金が無くなる前に実家に帰らなければならなかった。
引っ越すことを決めた。
帰省と療養生活
引越しの日程は10月8日以降になった。どうやら母方の祖母の調子が悪いらしい。入退院を繰り返していると聴いた。
引っ越し作業は火事場の馬鹿力でなんとかした。
大量に持っていた本は、全てを持ち帰るわけにはいかないので、大半を売ってしまった。いくつかの本は売らなければ良かったと後悔している。本の売却には1km先のブックオフを利用した。大量の荷物を持って8往復はしたと思う。
次に引っ越しの方法を考えた。家具や日用品は実家にあるはずだ。必要なのは服と本、それと大切なもの。引っ越し業者に頼んだ場合の費用を試算して気付いた。ゆうパックが一番安いんじゃないのか?火事場の馬鹿力が脳にまで影響したのか、最善の策に辿り着くことができた。
服や食料品を処分していく。そこで気がついた。不燃ごみを出せる日やカン・ビンを出せる日、粗大ゴミを出せる日が残っていない。急いで、ゴミ処理回収もしてくれる不用品回収業者に電話した。家電などの買取と合わせて、かなり少ない費用で不用品を回収してもらえることになった。
服や余った食料品の一部は全て可燃ごみに入れた。レトルト食品は研究室に押し付けた贈呈した。
こうして無事に食料品の100%、服の8割、本の95%、紙やノートのほぼ全てを処分した。あとは不用品回収業者に処分してもらう物だけだ。
こうした片付けの日々もすんなりと乗り越えられたわけではない。症状は日に日に重くなっていく。ゴミ出しやブックオフとの往復の度に、苦痛に叫びそうになった。何度も倒れそうになった。物が減っていくと寂しさが増していく。特に本が少なくなると心がより不安定になっていくのを感じた。夜になるとコロナへの不安が溢れてくる。精神的に不安定な人向けの、コロナに関する24時間相談ダイヤルというものがあり、その電話番号がお守り代わりだった。夜に不安が氾濫しそうになったら、その番号を書いた紙を握りしめて、薬を飲んでから寝た。結局一度も電話しなかったが、そのような24時間対応の相談ダイヤルの存在自体が救いだった。
無事にゆうパックの集荷の日、不用品回収の日、部屋の引き渡しの日が過ぎていった。
空っぽの部屋は何かの終わりを告げているようで寂しかった。
こうしてなんとか引っ越し作業を終わらせることができた。
2度目の休学,療養中にも襲い掛かるストレス
帰省中に特急の窓から見える景色は綺麗だった。この駅なら特急電車にぶつかりやすいな、あの橋から飛び降りるのは簡単そうだ、そういったことが自然と思い浮かんだ。美しい景色だった。
帰省してからは長い療養生活が始まった。症状や療養生活については、細かい記録がノートに残っているので、後日記事にする予定である。ここでは簡単に書くことにする。
まずは、心療内科を探し、通い始めた。病状、症状は、自律神経失調症、鬱病、不安障害。
回復のために、少量で良いので朝昼晩と3回食べる、睡眠をしっかりとる、日光を浴びる、軽く体を動かす。これらを毎日続ける。生活リズムをつくるため、そしてそれ以上に自律神経の働きを正常にするために必要なことだ。この記事の執筆時点でも続けている。
内服薬の量も増えた。しかし、新しく処方された、セルトラリンが体と合っていなかった。効果よりも副作用の方が強く出ていた。セルトラリンを服用してから、食欲は異常なほど減少した。おかゆや野菜スープを一口食べることすらつらい。約2週間ほとんど食事ができないほどだった。さらに粘膜が激しく荒れた。自律神経失調症とタッグを組んで、激しい胃痛が続いた。1ヶ月は体を動かすことが苦痛なほどの胃痛に悩まされ、半年近く胃薬が処方されることとなった。抗うつ剤を変えてもらってから、ようやく症状が軽くなり始めた。ほんの少しずつ、牛歩のごとくゆっくりと、それでも確実に良くなった。最近になって、内服薬の量が減り始めた。ここまでくるのに11ヶ月かかった。
ちなみに合っていない薬を飲んでいたときの苦痛は凄まじいものだった。生きる理由が消し飛び、死ぬ理由が爆発的に増えるような苦しみだった。そのとき、心の支えになったものが2つある。1つ目はフランシス・ジャムの詩『苦痛を愛するための祈り』である。この詩を知るきっかけになったインディーズゲーム制作スタジオのProjectMoonも大好きになった。詳しくは療養生活の記事で語りたいと思う。もう1つは永田カビさんの『現実逃避していたらボロボロになった話』の91ページである。『死なないことは、難しいことだと百も承知です』から始まる言葉を繰り返し読んでいた。気になる人はぜひ買って読んで欲しい。
話を帰省直後に戻そう。
帰省直後は虫に苦しめられた。実家が山の中であることをすっかり忘れていた。
夜に腕を這うデカいゴキブリ、枕元でガサガサと音をたてる巨大ムカデ。寝るときに電気を消すのが怖くなった。アシダカグモは嫌いでは無かったのだが、スリッパや大切な本の上に乗られたことがあり、その時は流石に殺虫剤を撒いた。アシダカグモに落ち度はないが、私の中のアシダカグモへの評価が落ちていき、益虫判定からギリギリ害虫判定までランクダウンした。
帰省してから1ヶ月と半月、母方の祖母が亡くなった。おばあちゃんっ子だった私には、とても悲しい出来事だった。実は帰省直前に、祖母が末期癌であることは知らされていた。ただひとつ救われたことがある。それは、正気な状態の祖母と最期にお話しできたこと。10月以降、投薬により祖母は正気の時間の方が短かった。投薬が必要ないところまで持ち直すと、相部屋に移動になる。相部屋は新型コロナウイルス対策で面会謝絶である。個室に居ながらも、正気な状態の祖母とお話しした最後の面会人に、私はなった.
お通夜やお葬式は現実感が無かった。最後の面会から2週間ほどしか経っていなかった。人間はあっさりと死んでしまう。
それとはまた別の話。
確か11月の終わり頃だっただろうか。長く付き合っていた彼女にフられた。今回も詳細は省く。悲しかったが、いい歳して将来の収入の見通しがつかない男は嫌だろうなと思い、なぜか納得した。ただ、私の人生の価値がさらに分からなくなった。
そしてさらに別の話。
実家は安心できる場所ではなかった。11月頃から、そのことを思い出していくことになる。父の存在を忘れていた。高校時代の話で少し出てきた、あの父である。この話題については、一番最後に書こうと思う。
療養開始から11ヶ月、体調が非常に悪くなってから13ヶ月、ようやく薬の量を減らせるところまで回復した。そして最近になって、まともな思考ができるようになった。思えば、修士1年の頃から、まともな思考ができていなかったのではないだろうか。常に追い詰められていた。これまでの過程で多くのものを失ったが、長い療養生活の結果、さまざまなものがはっきりと見えるようになった。
過去を見つめ終わったので、これからのことを考えようと思う。人の気質はそうそう変わるものではない。今までと同じ考え方で、同じ行動をしていれば、また今回のような長期療養が必要な事態になるだろう。
なぜ病気になったのだろうか、何が自分を追い詰めていたのだろうか、これからどうすれば良いのだろうか、考えていきたい。
人生を好転させるために
過去を振り返って感じた問題点は3点。
- 問題の根本を解決しようとしていない
- 自分を主張しなさすぎた
- 「したいこと」より「なりたいもの」を優先した
まず、ここまでこじらせてしまった原因は、問題の根本を解決しようと思わなかったことだろう。初めて不眠症状が現れたとき、完全に治るまで療養しただろうか、していない。中途半端に治しただけである。
以前の研究室で、急に降ってくる締切をなんとかしようとしただろうか。急な締切にはかなり精神を削られていたはずである。体調が優れない時や、忙しい時は断ってもよかったのではないだろうか。急に締切が降ってこないように、研究室でスケジューリングをするべきだったのではないだろうか。
修士2年の時に学振に応募できなかったのも痛いところだ。金銭面の心配事が非常に増えた。金銭面に不安があることは事前に分かっていたのだから、DCを取ることを最優先すべきだったのではないのか?そこに照準を合わせようとしたかだろうか。
今の研究室が合っていないと感じながら、そこに居続けたのはなぜだろうか。過去の話の中では書かなかったが、指導教員に「自分は鏡だ」と言われたことがある。「嫌だと思って接すれば嫌な奴になるし、良い感情を持って接すれば良い奴になる」と続いた。まさかとは思うが信じたのか?そんな馬鹿な。私は他人の研究を笑ってやろうと思って人の話を聞いたことも無ければ、「笑われるかも」と思いながら話したこともない。むしろ、最初の研究室内研究会では、自信を持って話をしたつもりである。それでも研究を笑われた。断定的な気持ちで、決めつけてかかって話しただろうか、人の話を聞いただろうか。そんなことは無い。それでも理不尽な強制的2択で問い詰められた。鏡なんかじゃない。そして、こんな経験は初めてか?否である!音大の先生も言動不一致の極致にいるようなホラ吹きだったじゃないか。もう一度自分に問いたい。まさかとは思うが信じたのか?そんなつらい思いをした場所に、留まり続けるのはなぜだろう。離れるべきだったのではないか。
中学高校の頃のことは仕方がないとして、それ以降はなんとかできなかったのだろうか。どれも根本的に問題が解決していないのである。根本的な解決は難しいことだと思うが、根本的な解決を目指そうともしていないのである。もしかしたら、問題だとも感じていなかったのかもしれない。クラゲのように流される存在になっていたのかもしれない。仮にそうだとしても、ハッキリと言えることがある。流される人生は自分に合っていない。合っていれば、こんな病気になってはいない。
次に自分を主張しなさすぎた。主張することを面倒な事だと思い、面倒事を避け続けた結果、さらに面倒な事になってしまった。
国際会議用の論文締切が突然降ってきたとき、以前の先生のやり方に合わせるつもりで進めていたのに、途中から現在の先生のやり方にも合わせようとしていた。板挟みになったとしても,自分が両方に合わせに行こうとした。人を優先しようとした。いや違うだろ。ここは、以前の先生のやり方にだけ合わせると主張すべきところだ。一応指導教員なので合わせにいったのだろうが、その結果が大惨事なのだから笑えない。結果として博士号獲得の条件を満たすチャンスを逃した。失敗した経験が頭に強く残った状態で、休学することになってしまった。結果論な部分もあるかもしれない。だが他人を尊重することと八方美人は違う。
また、実家の経済事情を考えて、仕送りを減らしてもらった。その分はアルバイトで賄った。結果として、2回の休学によって実家には多大な迷惑をかけてしまっている。
他にもこの記事に書いてあること、書いていないこと多数である。中学時代「人が先,自分が後」の精神は歪み,人との摩擦を減らすための規則に成り下がった.思うに,今もその頃の延長にいるのだろう。人に嫌われないように動こうとしている。他人との面倒ごとを減らそうと動いている。その結果、自分の身をすり減らしては元も子もない。
最後にして最大の原因、「したいこと」より「なりたいもの」を優先したこと。
初めは、中学時代のいじめから身を守るためのものだった。身を守るための虚栄。立派な「なりたいもの」を目指す立派な存在になろうとした。いつからか生き方になり、ついには取り返しのつかない状態になった.
「なりたいもの」を優先した最たる例が音大進学と、早々の退学である。音楽を全く楽しんでいなかったわけではなかったけれども、演奏は「したいこと」ではなかった。そして「なりたいもの」になれないと分かったら、すぐに中退した。
中退後すぐに「なりたいもの」を決めたのも良くなかった。大学でさまざまなことに挑戦して「やりたい」ことを見つければよかったではないか。
なぜ数学をやろうとしなかったのか。計算も早かったが、考え続けることはもっと好きだし得意だった。高校ではまともに勉強していなかったが、大学受験に関係ない内容の数学の問題は、何日でも考えていた。大学3回生のときのマンツーマンのゼミで、数学の楽しさを再認識した。それでも「なりたいもの」が優先され「すべき」ことを行った。機械学習の研究者こそ当時の「なりたいもの」だった。もちろん「なりたいもの」を優先する生き方が合う人もいるだろう。しかし自分はそうではなかった。
余談だが、過去に私のことを言い当てた先生が2人いた。
1人はKUMONの先生である。KUMONには小学3年生から中学2年生まで通った。その先生は、私の内面を「自縄自縛」と表現した。まさに後半2つの問題点、人を避け自分を主張しなかったこと、「したいこと」より「なりたいもの」を優先したことなどは、「自縄自縛」である。自分の言動によって、自分の動きが制限されている。それも悪い方へ向かっている。その先生は見事にその事を言い当てたのではないだろうか。
もう1人の先生は、高校2年時の数学の先生である。私の出身高校では、3年生で音楽の授業をとるためには、私立文系コースに進む必要があった。私立文系コースに進んだ学生は、数学の授業を履修できなくなる。その先生は、そのことをすごく惜しんでいた。「数学の勉強を続けて欲しかった」と言っていた。ちなみに当時の私はひねくれていたので、「高校全体の数学の偏差値を上げたいんかな?」と思いながら聞いていた。私の数学の成績は良くも悪くも無かったが、その先生は私を気にかけてくれていた。微分の授業の前にゼノンのパラドクスを考える宿題を出したり、大学受験とは関係のない問題をたまに出す先生だった。私はゼノンのパラドクスの「アキレスと亀」を丸一日ひたすら考えに考えて、次の授業で「アキレスと亀」についての自論を教卓の前で発表した。他の問題についても何日も考え続けた。そういった素質を惜しいと言ってくれていたのだろう。実際、数学について何日も考え続けることは好きなことであり、数学は「したいこと」である。
さて本題に移ろうと思う。
序文での疑問「どのようにして歪んだ「なりたい」気持ちが生まれたのか、そして、どうしてそれが最近まで残り続けたのか。」については明らかである。中学時代のいじめから身を守るために「なりたいもの」に固執するようになり、他人に流されるうちに「なりたいもの」への固執から逃れられなくなった。初まりは仕方のない事だった。しかし、悪習が残り続けたのは、自分がよく考えていなかったからだ。もしかしたら、修士の頃の精神的不調をしっかりと治さなかったばかりに、考える力がずっと鈍っていたのかもしれない。
対策としては、まずはしっかり休むこと。頭が正常に働いてこそ、私は楽しく生きられる性質なのだと思う。そして中学時代から続く、自分を縛る考え方も少しずつ捨てていく。立派な自分じゃなくてもいいじゃないか。他人に好かれなくても良いじゃないか。
面倒なことになると分かっても、他人に意見してみよう。どうしても面倒なら、その人から距離を置けば良い。よく考えれば、面倒な人にどう思われても、自分には関わりのないことだ。
一度悪い価値観を手放したら、今度は探していく。何をしたいか、何をしたくないのか、何にストレスを感じるのか。静かに落ち着いて過ごせる場所で、少しずつ試しながら、増やしていこうと思う。できること、できないこと、したいこと、したくないこと、ストレスを感じること、楽しいこと、嫌なこと、ひとつひとつ確認していく。
きっとそこからはじめるしかないだろうから。
再起の障壁は身内にあり
しかし、そこにも問題があった。父親の存在だ。
ギャンブルで高額の借金を作り失踪、高校時代の大切な時間を1ヶ月ほど捜索に奪われた。
パチンコ店の駐車場で発見されたが、失踪した理由の説明もなければ、借金の返済にほとんど全ての貯蓄が使われたことへの謝罪もなければ、捜索した人間への謝罪もなかった。ただ黙ってやり過ごそうとする子供同然の姿がそこにあった。
それから、約10年。
失踪事件や借金のことなど忘れたかのように傍若無人に振る舞う父がいた。
どうやら、この約10年の間に、老後のための、なけなしの父名義の定期預金を勝手に解約して全額使っていたようだ。
家に父しかいない時間には、私の部屋や姉の部屋も物色される。個室とかプライバシーという概念がないらしい。自分の家のものは、全て自分が自由に使って良いという考えのようだ。金品は隠す必要がある。
さらに、自分が絶対的に正しいという振る舞いを続ける父。悪いことをしても決して謝らない。ある日、コンセント奥の配線を弄ろうとしていた父に、資格が必要なことを指摘したら「家の中のことに資格があるわけなかろうが!そんなわけあるか!知った風な口をきくな!」と怒鳴りつけられた。どうやら線の切断まで考えていたようだ。ブレーカー落として無いっすよ?そのくせ、自宅の外壁のペンキ塗りに関しては、足場を組んでやるべきであるルールを遵守しようとする。
庭にある電線近くの木を切り倒す計画を、口から垂れ流し始めたこともある。電線が近すぎるため、また、電線と反対側は道路であるため、業者に任せるべきだと思うのだが、父は身勝手で危険極まりない計画を堂々と語り、それを誇らしげに自慢する。ちなみにその計画にはどう考えても4人は必要なのだが、こいつの中では、私や母や姉が手伝うことが確定しているらしい。なぜ、電線を巻き込む可能性のある危険な計画に協力しなければならないのか。理解に苦しむ。
しかし残念なことに、最近になって理解できてしまった。
こちらの予定や今やっていることを無理やり中断させる呼び出しが何度かあった。こちらの都合などお構いなしの手伝いの要請の数々。もちろんお礼のひとつも言わない。そんな暴虐が私や母を襲う日が幾日かあった。そうして理解した。この父親の考えの根源は2つ。ひとつ、自分は絶対的に正しいと考えている。ふたつ、家族とは指示通りに動く機械のようなものだと認識している。この人間は、家族を人間扱いしていない。この2つを中心に考えれば、父の言動は全て理解できる。おぞましいけれど。
祖母の通夜の日にも、父は自身の仏教の知識をひけらかし、それを絶対的に正しいものとして、通夜や葬式のダメな部分を一晩中語っていた。傷心の母や叔父に、労りの言葉ひとつかけない。人の心を持っているかどうかも怪しい。
前述の通り、私には、落ち着いて自分を理解していくプロセスが必要だ。ハリボテの自己を剥がして、やりたいこと、やりたくないこと、できること、できないこと、好きなこと、嫌なこと、ストレスの要因を認識する時間が必要である。これからを生きる準備が必要である。
しかし悲しいことに、実家は落ち着いていられる場所ではなかった。
父という心なき存在にストレスを与えられる場所だった。
最近は、同じ血が流れていることに穢れすら感じる。血に罪悪感すら生じる日々。自分の血に嫌悪すら感じる。
山奥の実家に住む今の私には、どうにかしてネットでお金を稼いで、実家を出ていくしか選択肢がない。
あの存在の巣から逃げ出すために。落ち着いた時間を確保するために。
今やるべきことは2つ。
なんとか落ち着いていられる時間で、これからを生きる準備をする。
お金を稼いで、お金を貯めて、実家から出て自立する。
つづく
最後に何だか悲しい現実が見えてしまったが、受け止めるしかない。
やれることをやれるときにやるしか無いからね〜
私は幸せになるために生まれてきたのだ。そう思える日まで、私は、